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2011.03.31

当事者性〜不安と想像力〜

先日,私たちが直面している現実を克服していくためには,不安を共有せざるを得ないことを書きました。さて,この問題は近年注目されている当事者性の問題でもあります。この点を少し掘り下げて考えてみたいと思います。

確かに私たちの生活が危機に直面したとき,私たちは不安を感じることになります。こうした危機に直面することは確実に私たちを当事者とします。今回私たちの多くは否応なく危機に直面したため,当事者となりました。もちろん,これほど大きな災害ですから,危機の位相も不安の内容も必ずしも単一ではありません。そのため,大きな括りでは確かにこの災害の当事者といえますが,私たちは必ずしも同じ危機に直面した当事者ではないということです。

しかし,私たちは他者の危機を想像することもできるのです。それゆえ,私たち一人一人が直面している危機から類推し,他者の危機を想像し,様々な支援が行われているのでしょう。

ただ,この他者を想像する力は必要以上に機能することも考えられます。他者の危機を実際よりも大きく見積もることがありえます。これは先日指摘した不安のアノミー的状態を惹起することになります。というのも,想像すればするほど,現状の危機から与えられている情報をもとに,さらなる危機を想像することにもつながりかねないからです。

例えば,原発をめぐって様々な議論がなされていますが,専門外の私が単純に推測するだけでも,連続的に冷却するシステムが壊滅しているため,緊急避難的な冷却が続けられるとしてもそれが連続的な冷却を行えないものであるかぎり,事態が収束するまでかなり長い時間が必要だと想像できます。「与えられた事実」(冷却システムの壊滅,核燃料の冷却に時間がかかること,緊急避難的な冷却が連続的な冷却ではないこと,など)をもとに想像(≒推測)していますが,そもそもその「与えられた事実」が誤っている,あるいはさらなる事実が隠されていると想像することもできます。そうなると,私の想像の正しさ以前に,事実そのものに対する想像力が働くことになり,どのような事実が出てきても,さらなる事実(と思われるもの)をアノミー的に求めていくことになるでしょう。

正確な事実を知ることはその後の行動を想定するためにも重要なことです。これも先日述べたことですが,事実を知ることすら,私たち個人の責任において遂行することが求められているのです。当然ながら,そこから導かれる帰結も個人で引き受けることになります。それゆえ,このアノミー的な想像のプロセスは個人において遂行されることになります。

そして,ここでまた,先日述べた言語資源の格差が顕在化してきます。つまり,言語資源の格差によって認識の枠組みが変わってくるため,想像力が及ぶ範囲も異なってくるのです。これはもしかしたら正確には言語資源の格差というよりも,それと相関する知識の格差かもしれません。いずれにしても,ある人はある事態を起こり得べきあらゆる可能性を想像することでその事態に対応しようとするでしょうし,別の人はある事態について自分が(場合によっては意図せずに)知った事柄だけで判断していることでしょう。こうしたある事態に対する対応の格差は,想像力の差異にあると考えられます。

同時に,こうした想像力の差異が不安の位相を決定すると考えられます。つまり,ある事態に遭遇したときに一人一人の不安は異なるはずです。なぜなら,それぞれの能力や知識などが異なる以上,それをどう捉えるのかはすでに述べた言語資源の格差に依存するからです。しかし,私たちは想像力を働かせることで,自分がもつ不安は一つの不安にすぎず,隣にいる他者は別の不安を持っていると考えることもできます。これが先に述べた東北地方への大きな支援のつながりを生んでいるのだろうと思います。ただ同時に,この想像力が十分に働かないときには,他者の不安を共有することはできません。そのため,同じような事態に遭遇した他者が自分とは異なる対応をすることに解せないと感じるのは想像力の不足に起因するのです。

ここで当事者という問題が明らかになります。つまり,想像力を働かせて他者と不安を共有できれば誰しもが当事者となりうるということです。逆に他者と不安を共有できなければ,かりに同じ状況下におかれていたとしても,それは当事者とはなりえないということです。

それでは不安は何によって克服されるのでしょうか。私はその事態を乗り越えることだけで不安が解消されるとは思えません。それはある種の信頼によって自己の存在が確証されることを必要としているのではないでしょうか。これは絶対者による庇護を意味しているのではありません。こうした大災害の前で私たちの力はあまりに小さいために,私たちの力を超える何かに信頼を求めていくかもしれません。もちろん,そうした選択肢も許容されるべきでしょうが,私は私たち相互の信頼によって自己の存在を確証していくことで不安が克服されるのではないかと考えています(これはある人に示唆を受けたのですが,ある種の楽天性ないしは楽観性といってよいと思います。)。

先日,不安というネガティブなものによって協同が始まると書きましたが,同時に私たちはその不安を克服できるものとして捉える楽観性があるからこそ,協同することができるのでしょう。このあたりはまた後日深めて考えてみたいと思います。

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